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世界各宗教の死生観

매일종교신문 | 기사입력 2013/07/22 [13:40]
死に対する理解の仕方に従って、生き方も違う

世界各宗教の死生観

死に対する理解の仕方に従って、生き方も違う

매일종교신문 | 입력 : 2013/07/22 [13:40]
<韓国の巫俗信仰と死>
「お帰りになった」(韓国語では「死んだ」という意味にも使う)は、「帰って生きる」という意味
 
肉体から霊魂が離れてしまえば、それが本当に死んだのであり、その霊魂がまたその肉体に戻れば生き返ると考える。人が呼吸を止めれば、死んだ人が着ていた服を持って屋根の真ん中に上がり、北側を眺めながら死んだ人の名前を三度呼ぶのだが、これは魂を再び肉体に合体させようとするのである。これを「皐復」あるいは「招魂」と言い、このようにしても生き返らなければ、その時に始めて「死」ととして規定する。
韓国人の霊魂観は二種類に区分されるが、一つは人が死んだ後、冥土へ行く死霊であり、もう一つは生きている人の体に宿っている生霊である。巫教(シャーマニズム)は、霊魂を安置して、冥土へ迷わずに行かせるようにする点に特色がある。韓国人は霊魂に対する姿と性格の規定を、生きている人と同様に人格的に待遇をする。死を「お帰りになった」と言うのも、現世に生きて老い、寿命が終わり、あの世に「帰って生きるようになる」という韓国人の死生観の反映である。
 
 
<儒教の思想と死>
生まれるのも分からないのに、どうして死を分かるか?
 
孔子の弟子である子路が、「死が何ですか?」と尋ねたところ、孔子は「生まれるのも分からないのに、どうして死を分かるか?と言った。儒教は来世観を持っていないため、死生観も確実ではない。しかし、孔子も敬天信仰を持っていた。儒家は死自体の意味や死んでから始める他の世界に対しては関心が無く、人生と死を大自然の法則による神鬼過程(神や鬼。神の霊や死人の魂。人間を超えた霊力のあるもの)として見ることにより、形而上学的問題とした。従って、生と死の影響で前後に延長され得る想念を初めから断念して、一回切りの人生自体に没頭するようになった。儒教が宗教として固辞する理由は祭事制度にあるが、祭事行為が成就される時、祖先霊は現世に残って生きている子孫の誠意と祈祷に感応すると見る。
 
 
<道教の思想と死>
生は死のパートナー、死は人生の開始
 
道教は中国古代の民間信仰を土台とする神仙説を中心に、不老長寿を主目的とする現世利益的な自然宗教であると言える。道教は死を問題視しないで、死を単純に自然変化の一部として、道によって支配されることとして理解した。「生は死のパートナーで、死は生の開始であるので、どちらが根本であることを誰が知っているか? 生とは気運の集りで、気勢が集まれば生まれ、気勢が散れば死ぬことなのに、このように死と生がパートナーとして会えば、何を心配することがあるだろうか? 自己の人生を良く過ごしたら、死もまた毅然と迎えなければならない。
荘子の道教的な立場の死生観を代弁してくれる。
 
 
<仏教の思想と死>
生と死を超越する涅槃の境地が最高の価値
 
仏教では、死を人間としては避けられない現実として見た。そして、死という実状を超越する、より高い次元の真実を体得することによって、現実的な死の問題が克服されるというのが仏教の立場である。このような克服を通して自由を追求するのが、仏教全般の目標であると言える。死後の存在でなく、死に対する新しい次元の認識である。すなわち、生にも煩わされず、死にも煩わされずに、生命に対する追求であった。生と死を超越して、業(ごう)と輪廻から抜け出した境地として、煩悩を消してしまうという涅槃の境地を最高の価値として打ち出す。
 
死とは、大きな生命の縁起的な存在様態であり、大きい生命の流れの過程にある、一つの段階の輪に過ぎないとして、独立的な死の実体はないと見る。
仏教における死の問題は心の問題として帰結され、心の問題は窮極的に無心の状態、すなわち寂静であり、涅槃の状態に到達できる時、解決される。
 
 
<キリスト教の思想と死>
復活、そして霊魂と肉身が結合した永生
 
死と関連したキリスト教の思想は、先ず旧約聖書を通して、その起源を知ることができる。旧約時代の創世記から詩編以後までは、死の普遍性と共に、関連した人生の虚しさを提示している。しかし、旧約時代は死の普遍性から再び新しい死の意味を付与して、死と罪は因果関係があると見る。神は人間を不死・不滅するように創造し、人間は死の免除を受ける素地を持って創造された。しかし、人類始祖のアダムとエバが神に従順でなかったことによって、死がこの世の中に入って来て、罪によって「死」という罰を受けるようになったと信じる。
 
新約聖書での死生観は、イエスと死の関係を通して理解する。
人間の条件としては、甘受できないくらいの苦痛の最悪の死を完全に克服することによって、罰を受けた人間の死を永遠な生命として救いを受け、イエス・キリストが死んだ後、3日ぶりに復活したように、人類も末世には全て復活した後、霊魂と肉身が結合して、天国で永生を享受するようになると見る。
 
 
<インドのヒンズー教と死>
古い服を脱いで、新しい服に着替える
 
古代インド人は、人々が死んで行くあの世を「ヤマ(Yama)」と呼び、これが仏教に入って来ると「閻羅」と音訳される。しかし、後期ヴェーダ時代(紀元前八世紀頃)に至ると、ヤマの王国ですら生と死があるという論争が起きて、輪廻思想が芽生えるようになった。インド人はこの世で最も大きな不思議が死であると考えた。インド人は、死とは古い服を脱いで新しい服に着替えるように、新しい生命を得て皮を脱ぐ新しくも永遠なる再生として把握した。死を正しく生命過程の一つとして見るのである。人間の本質的な自我が生死の循環を抜け出した存在として理解するので、現世の死を征服するだけでなく、来世の生と死までも征服することを熱望する。人間の本質が何かを悟った時、死の恐怖は痕跡を無くして生死の循環から自由になり、肉体の死は悟った者にあっては死でないと見る。死んだことの肉体であって、本質的な自我ではないということである。
 
 
<天道教の思想と死>
死後、個体自我の生霊が創造的な遭遇関係として現存
 
天道教は「至気一元論」(天地の根本が神の気の全能力から発生・進化し、これが現象界では、内的には霊的方面となり、外的には物質的方面になったという宇宙観)なる神観を持って、「侍天主」(自己の心に神が常に内在すると考えること)信仰を重要視する。「侍天主」思想は、「人乃天」思想に発展する。従って人が死ねと、他宗教のように視空間的な神霊世界に移住すると考えない。無窮の総体的な大生命世界において、個体自我の生霊が創造的な遭遇関係を持ちながら、現実的な生の中に現存すると見る。
すなわち、天道教の死に対する理解は、肉身は解体されるが神の気の分身体として、霊妙で生霊的な生命体は子孫の生命と宇宙生命体と共に、現世的な地上天国が成就される時まで共存共役しながら、永生すると信じる。個体生命が復活体として再び復活するという永生観や、彼岸世界の霊界に移されて永生するという死生観は存在しない。
 
 
<イスラム教の思想と死>
終わりでなく始まり、苦痛からの解放
 
イスラム教での死は、末世委、生命の損傷でない霊魂と肉体の一体感の消滅を意味する。従って、死は終わりではなく新しい始まりであり、苦痛からの解放であるので、喜びとして見る。来世は、現世とは比較できない程の高次元的な状態が保障される所である。火葬すれば霊魂の安息地が消滅すると見て、墓という霊魂の居住空間に埋葬する。また、復活と審判に対する信頼も確固である。すなわちイスラム教の来世観は、ユダヤ教とキリスト教の混合的な要素を持っている。特に、神と人間のための聖なること、「ジハード(聖戦)」に参加して死ねば、楽園に行くという信念を持っている。
 
 
<神道の思想と死>
死は穢れ、子孫が祀って浄化
 
神道は、日本の土俗信仰と仏教が混合した宗教として発展した。従って、仏教の極楽思想と異なることはない。ただし、多神教ながらも先祖崇拝が強いので、昔の神であればある程、深く敬う。死んだ霊魂も本来の個性をそのまま持っており、死により穢れていると見る。穢れた霊魂を子孫が祭祀と崇拝によって敬えば、穢れが除去されて、子孫の守護神になるという信仰である。このように浄化された先祖の霊魂は、子孫がお守りや位牌として作られて、神社や特定の場所に置かれて、崇拝される。
 
 
<ギリシャ神話の思想と死>
生と死を地上と地下で区分
 
ギリシャ神話では、地下は死の世界である。
死者は地下世界を管掌するハデスの宮殿に至るまで、悲しみ(アケロン)、嘆き(コキュートス)、火(プレゲトン)、忘却(レテ)、憎しみ(ステュクス)等、5つの川を渡らなければならないが、その名前に該当する物を投げて初めて、冥土の人生を開始できると信じた。最後の川を渡れば原野が出て来るが、右側には楽園の野原であるエーリュシオン、左側には無間地獄であるタルタロスが出て来ると信じた。
 
 
<エジプト「死者の書」と死>
肉体と霊魂の分離現象
 
古代エジプト人は、死を肉体と霊魂の分離現象として見た。
古代エジプトの墓で発見された死語世界に言及する文章と、死者の永生に関する祈願文、「使者の書」がある。これによれば、使者は太陽神「ラー」の船に乗って恐怖の渓谷を渡って、7~22個に達する城門を通過、オシリスの審判台に達しなければならない。
城門ごとに案内人、門番、伝令がおり、彼らの名前を一々呼びながら、敬意を示した後に城門が開いて通過が許される。その名前が「死者の書」に記録されている。オシリスの法廷で審判を受けて初めて、復活の資格が与えられる。霊魂が復活するためには、完全な肉体がなければならなかった。これがミイラ製作の理由であった。
 
▲エジプト墓で発見された死者の書 (c)毎日宗教新聞
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