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逝去65周忌を迎える「青い目の韓国魂」、ハルバート

이광열 기자 | 기사입력 2014/08/01 [17:47]

韓国人よりも韓国を愛し、「楊花鎮」に永眠

逝去65周忌を迎える「青い目の韓国魂」、ハルバート

韓国人よりも韓国を愛し、「楊花鎮」に永眠

이광열 기자 | 입력 : 2014/08/01 [17:47]
▲ ホーマー・ハルバート

1949年7月末、仁川(インチョン)港、86才の老駆を率いて、ぼうぼうの白髪の米国人がやって来た。国軍儀仗隊の閲兵と国民の歓待を受けながら、彼は感激的にも解放された韓国の地を再び踏んだ。その米国人は、ホーマー・ハルバート(Homer Bezaleel Hulbert、韓国名は「割甫」または「訖法」、1863~1949)。彼は韓国の独立運動家であり、教育家、言語学者、歴史学者、そして社会運動家として全生涯を韓国のために捧げた方として、彼をよく「韓国人よりも韓国を愛したハルバート博士」と呼ぶ。

ハルバート博士は、1863年1月26日、米国バーモント州ニューヘブンにて、父のカルビン・ハルバートと母のメリー・ウッドワースの間で、次男として生まれた。牧師出身の父は「ミドルベリー(Middlebury)大学」の総長を任され、母は「ダートマス(Dartmouth)大学」創立者の子孫として名門の家柄の出身であった。

ハルバート博士は厳格な道徳性、人間中心の思想、「人格が勝利より重要だ「という家訓の下で成長した。彼は「ディットマス大学」で修学し、1884年、ニューヨークの「ユニオン神学校」で神学の勉強を終えた後、海外宣教師の道を選んだ。
彼は1886年(高宗23年)6月、「育英公院」(Royal English School)の外国語教師として招請を受けて就任するため、仁川(インチョン)の済物浦(チェムルポ)港にて、初めて韓国の土地を踏む。当時、彼の年齢は23才。「育英公院」は、高宗が英語と西洋学問を教えるために設立した王立学校であった。東方の小さい国に誰も関心を持たなかったその時、青年ハルバートは韓国を見る目は格別であった。韓国の文化と歴史を、非常に価値あるものと見なしたである。彼は日本の宮内庁長官であった田中が略奪した、「敬天寺」の「十層石塔」(国宝第86号)の返還運動を展開、返してもらうのに大きな役割を果たした。

彼はハングルの優秀性と偉大性を初めて発掘し、我が国最初のハングル教科書『士民必知』(1891年)を著述、ハングル使用を主張した。『士民必知』とは、全ての人が必ず知らなければならない知識という意味である。周時経先生と共に「分かち書き」を強調し、ハングル普及運動を先導し、「漢城師範学校」、「官立中学校(京畿高校の前身)で学生達を教えながら、韓国の近代教育の基礎を築いた。
1896年、高宗が楽しんで口ずさんだ「アリラン」に音符を付けて作曲して、「アリラン」を音楽として誕生させた人が、まさにハルバートである。最初に西洋音楽の楽譜を取り入れて、「アリランは韓国人にとって米だ」と称賛して、美しいアリランの旋律に盛られた韓民族の情緒と悲劇を正確に表現した。『韓国の声音楽(Korea Vocal Music)』という論文を翻訳発刊、「アリラン」を初めて世界に知らせることもした。彼は「アリラン」と関連して、「ワーズワース、バイロンのような有名詩人にも劣らず、韓国人は吟遊詩人のようである」とまで高く評価した。

彼はまた歴史学者として、1901年から1904年までの間、自身が創刊して主筆であった『The Korea Reviw(韓国評論)』紙に4年余りにかけて韓国歴史の内容を連載し、1905年、最初の英文歴史書物『History of Korea(韓国史)』と1906年、左記の著書の内容を更に補完して、韓国を最も写実的で客観的に描写した『The Passing of Korea(大韓帝国滅亡史)』を出版した。この本は外国人に韓国を総合的に紹介する道案内として、韓国を研究する学者にはこの上無い重要な本になった。

社会運動家としては、YMCA設立準備委員長を引き受けては産婆の役割を果たし、当時唯一の英文月刊学術誌であった『Korean Repository(韓国彙報)』の運営責任者として活動し、『独立新聞』創刊を助けながら英文版主筆を担当した。
彼が運営した「三星出版社」の活字と印刷施設を利用して、発行が可能となったのである。
様々な業績の中でも、母国でない韓国の独立のために全身を捧げたハルバート博士の業績は、圧巻である。
ルーズベルト大統領に乙「乙巳条約」(日本が大韓帝国の外交権を握った条約)の不当性を訴えるために、高宗皇帝の親書を伝達する特使として任命されることもあった。

1907年、オランダ・ハーグで開かれた「第2次万国平和会議」に特使として任命され、李相卨、李儁、李瑋鍾を助けて、日本帝国の不当性を世界万国に告発した。彼は「ピースクラブ(Peace Club)」で李瑋鍾が演説することができるように斡旋し、日本帝国の不当性を糾弾する言論活動、演説活動等を助けた。会議議長であるネリドフ(ロシア)に会おうとしたが、外交問題で摩擦を醸し出そうとしない当時の国際情勢の雰囲気によって、成し遂げることが出来なかった。このため、彼は日本帝国によって1909年、米国で強制追放されてしまう。ハーグ会議では事を成し遂げられなかったが、米国でも彼の独立運動は止まらなかった。ニューヨーク・タイムズ新聞との会見で、「韓国は最後まで闘争するであろう」と宣言する等、国内外で活発な独立運動を進めた。マスコミを通して「乙巳条約は皇帝が署名しなかったし、玉璽は強奪された」と言う等、日本帝国の不当性を糾弾し、米国内でも独立運動家を支援した。「3・1運動」直後の米国議会に、「韓国をどうするのか?」という陳述書を提出、日本を告発した。また、ニューヨーク・タイムズ(1915. 12. 12)には、米政府の「乙巳条約」黙認に対するハルバート博士の強力な抗議が掲載されることもあった。

安重根義士は1909年、旅順の監獄で酒井警部から調査を受ける過程で、「ハルバート博士は、韓国人であれば一日でも忘れてはならない人物」と言って、彼の業績を非常に高く評価した。特にメソジスト派宣教師として韓国に来た彼は、民族固有の神(韓国語で「ハナニム」)に対する概念をキリスト教の唯一神信仰として解釈したのも省くことが出来ない。エホヴァ、あるいはヤハウェとは言わずに、民族固有の神を「ハナニム」(「ハンオルニム」=「ハヌルリム」=「ハニニム」)と呼んだのは、韓国布教に多大な成果をもたらすようになる。彼は『The Passing of Korea』において、「韓国人の『ハナニム』信仰」に対して、興味深い記録を残した。

▲ ▲「楊花鎮」の丘にあるハルバート博士の墓地を訪問した、李沃龍発行人    ©毎日宗教新聞

「ある人の宗教が何であるかを知ろうとするなら、その人が死にそうな境遇に置かれた時、大事にしていた純粋な宗教が口から出て来て、呼ぶ神を見れば知ることが出来る。韓国人の場合を見れば、表向きに現われる色々な外来宗教の神を探すのではなく、彼らの奥深く隠れていた神(ハナニム)を探す。「神(ハナニム)信仰」は、外来宗教とは別途のもので、そうだからと言って原始的な信仰でもない。

神(ハナニム)は天帝を意味するが、全ての韓国人が宇宙を主宰する一位神として信じている。したがって韓国人は、徹底した神(ハナニム)信仰[一神信仰]を守っている。キリスト教信者が信じる神様とその神観が一致するので、プロテスタントの外国人宣教師が、「神様(ハナニム)」という名称をを普遍的に使っている。…韓国人の中である儒教信者が死にそうな境遇に置かれた時、果たして彼は「孔子様、助けて!」と絶叫するだろうか。…絶望的な崖っぷちで、彼らが一様に「神様(ハナニム)、助けて!」と叫びながらもがく。」
彼は韓民族の神(ハナニム)を、明らかに唯一神の神として確信したのであった。

1886年、23才の若い年齢で未知の世界である朝鮮に第一歩を踏み出して以来、文明開化の先駆者として、そして独立運動家として韓国の地に文明と正義、自由、平和が満開となることを希望して、全人生を捧げたハルバート。
教育家、歴史学者、言論人、ハングル学者、宣教師、皇帝の密使、抗日独立運動家のハルバート。

彼は日本帝国から強制追放されてから40年ぶりに、老駆となってまた韓国の地を踏んだが、長い間の旅の疲れで8月5日、韓国到着の一週間後に逝去する。8月11日、ソウル市庁の横にある「府民館」で、外国人最初の社会葬を行った。政府は1950年、彼に「建国勲章独立章」を与えた。彼は普段、「私はウェストミンスター寺院よりも、韓国の地に埋められたい」と言っていたが、彼の望みの通り、「楊花鎮」の丘に永眠した。彼の逝去65周期を追悼する。韓国人よりも韓国をさらに愛したハルバート。彼は真正な韓国人であった。(キム・ジュホ 民族宗教論説委員)
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