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「檀君とハヌルニム(天の神様)、神様は同じ方」 - 宗教は変えることができる

이광열 기자 | 기사입력 2014/08/25 [15:03]
宗教指導者との対談● 「大倧教」 元永鎭(ウォン・ヨンジン)総典敎

「檀君とハヌルニム(天の神様)、神様は同じ方」 - 宗教は変えることができる

宗教指導者との対談● 「大倧教」 元永鎭(ウォン・ヨンジン)総典敎

이광열 기자 | 입력 : 2014/08/25 [15:03]
「『大倧教』は檀君(建国の伝説的な人物)を教祖とし、民族固有の神様を信仰する宗教」


対談:李沃龍(発行人)
司会:申敏亨(主筆)
日時・場所:2014年3月10日 「大倧教」総本寺
写真:黄光顯(写真専門記者)

 

▲ 元永鎭 「大倧教」 第19代 総典教     © 黄光顯 記者


「大倧教」の代表者である元永鎭(62)総典敎は、年配の他の民族宗教指導者とは異なって、若かった。五千年の歴史(4471年)の最も古い宗教の首長として彼は威厳や権威を誇示せず、対外的な活動にも積極的だ。それで「大倧教」の一角では彼の気さくな行動が批判を受けているようだが、彼が積み重ねた経歴・活動が、むしろ萎縮した「大倧教」の将来を明るくするだろうと期待する人も多い。


「檀君を教祖とし民族固有の神様を信仰する宗教」


彼は1978年に「大倧教」に入信して以来、日本、中国、北朝鮮の布教に積極的であり、このために「海外同胞研究所」、「礼節研究所」、「人性開発研究所」等の個人活動を絶え間無く続けて来た。中国・牡丹江の鏡泊湖に200万坪の牛牧場事業を展開もした。疲弊した北朝鮮と朝鮮族に手助けしようとする集いと事業が、長期的には「大倧教」の大志を伝播するのに役に立つだろうと信じたからである。「檀君精神宣揚会」を通じて脱北者に対する特別講義も多く実施した。
2012年、キム・ムンギョム総典教が77才の年齢で朝天(他界)し、第19代総典教として選任された後にも彼が主導して来た「檀君精神宣揚会」の会長をしている。「大倧教」の首長として辞退すべき職位だという非難もあるが、彼は全てが「大倧教」の隆盛のために必要なことだと考える。神様の御言葉と民族の根元を探す内部的な運動であると考えるためだ。
彼はカトリック団体の神父と修道女を対象に、講義もした。「『大倧教』は檀君を教祖とする民族固有の『ハヌルニム』(人格化された神)を信仰する宗教」であることを強調するのであった。イエス・キリストを通して神様を敬拝するように、「大倧教」の経典を通して檀君ではなく、神様を教えたのである。檀君信仰を迷信、偶像崇拝として片付けた彼らに対して、キリスト教が説明する神と異なることは無いという意味で、民族の敬天思想を教えて、それが万物の主管者である神様を敬うことだと力説した。檀君信仰が「熊の話」(熊が人間の女性になったという神話)を取り上げて論じる、神話や迷信でないことを認識させた。檀君が「神様のメッセンジャー」という論理と、「檀君と『ハヌルニム』、神様が同じ方」という点に共感した。
これに対して一人の修道女が彼に近寄り、「同じ神様を信じるならば私も『大倧教』信者になれば良かったのに」という冗談半分、本心半分の話も交わしたという。



▲ 日宗教新聞 李沃龍 発行人と 対談を交わす元永鎭 総典教。     © 黄光顯 記者


「イエスは西洋の救世主、『弘巖(ホンアム)』大倧師は東洋の救世主」


元永鎭総典教の実兄は、プロテスタントの長老であり、義弟は牧師である。それでも、互いに仲良く暮らしている。「檀君像毀損」や「祭祀拒否(先祖参り)」のような不祥事は生まれない。彼は「敬天、崇祖、愛人、愛物思想」を基本的に持っている限り、「宗教は変えることができる」と信じる。彼の周囲にはプロテスタント牧師10数名が檀君を研究し、内的に交流している。僧侶30数名も檀君思想を研究している。
果たして彼もやはり、篤実なプロテスタント信者だった。当時、「三角山」で百日祈祷を捧げた。その時、「民族のために祭壇を築け」という啓示を受けたという。彼は1977年7月7日、典農洞(チョンノンドン)の自宅に「民族祭壇」という表札を掲げて20年間、「子時祈祷」の計画を立てた。そして「不生不滅の真の心」である天真を得るために、1978年「大倧教」に入信した。

全ての宗教を包容し得る調和の原理を備えた全世界的な宗教として、「大倧教」に改宗することになった。プロテスタント信者であった当時、迷信の偶像である思っていた檀君と「大倧教」を、普遍的・合理的宗教として受け入れた。キリスト教では解くことが出来なかったわだかまりが、解けた感じだったという。彼は神学を学んだ歌手であり画家でもあるチョ・ヨンナムが、「イエスは西洋の救世主、『弘巖(ホンアム)羅喆(ナチョル)』大倧師は東洋の救世主」と語った話に共感する。
ただし彼は、「個人的に宗教は変えることが出来るが、先祖を変えることは出来ない」という信念が徹底している。それで「私たち民族が持つべき精神を探し求めなければならない」として、その精神を国祖である桓因・桓雄・檀君王倹の三倹一体(三神一体)に探し求めている。「大倧教」の基本経典である「三一神誥」、「神事記」、「神理大全」等によれば、時空を超越した唯一無二な絶対的な神である「ハンオル」(大倧教でいう宇宙神)が、まさに信仰の対象である。


日本植民地時代、30万人信徒の拡散と萎縮


「大倧教」は1909年1月15日(陰暦)、「弘巖 羅喆(ナチョル)」大倧師(1863~1916)が起こした宗教である。
しかしその脈絡は檀君教祖から出発して羅喆教祖に達する五千年歴史の中で、宗教名や儀式の変化にもかかわらず、綿々と続いている。
檀君時代には江華島(カンファド)摩尼山(マニサン)に祭天壇を準備して、天の意志を呼び覚まさせた。扶余(プヨ)国では教団名を「代天」として、陰暦10月に「迎鼓(ヨンゴ)」(秋の収穫後の儀式)の祭礼を挙行した。三韓時代では、「禊飲(ケウム)」の儀式(陰暦3月3日に酒を飲む儀式)を通して教団の伝統を守った。高句麗時代には、「敬天」という教団名で「東盟」の祭礼(陰暦10月に神に捧げる祭礼)を挙行し、新羅では「崇天」、百済では「郊天」、渤海では「真倧大道」という名前で教団の流れが続いた。高麗の時にも「王倹教」として「東盟」の伝統を引き継ぐ「八関」を挙行した。山の神、龍王等の民俗信仰の底辺にも、その脈が流れていると言える。

元の侵略以後、700年間途切れた教団の流れは、「羅喆大倧師」の「重光」(復活の意味)によって脈を引き継ぐことになった。それで開天4343年(檀君から始まる年号)、西暦1909年陰暦1月15日を「重光節」として、「大倧教」の4大慶節の一つになった。
宗教というよりは「抗日国救」、独立運動により多くの貢献をした「大倧教」は、教団を始めてから1年で2万人の教徒が生じ、教団名を「大倧教」へと改称した。一方、満州の北間島(北朝鮮の中国・ロシアとの国境地帯)に支寺を設置し、1914年には本寺を「白頭山」(ペクトゥサン)北側麓の「青坡湖」(チョンパホ)近辺に移して、国内と満州地域に布教をすることによって、30万人の教勢へと拡大した。
これに対して脅威を感じた日本は、1915年10月に「宗教統制案」を公布して弾圧を強化し、教団の存廃危機に直面した羅喆は、翌年8月15日に「九月山三聖祠」において日本の暴政を嘆くと同時に、人類救済のための切実な志を残して自決した。以後、「大倧教」は多くの迫害にもかかわらず、独立運動の拡大を通じて布教活動とその精神の脈絡を引き継いで行った。
1945年8月の「光復」(解放)を迎えるとすぐに総本寺が復活し、1946年2月に帰国してソウルに設置された。米軍政時の「大倧教」は、儒教、仏教、天道教、キリスト教のプロテスタント等と共に5大宗教の一員として登録され、大韓民国政府が樹立された後には、初代「文教部」(文科省)長官であるアン・ホサンの努力によって、カトリックを含めた6大宗教の中で第1号宗団として登録され、「開天節」(建国記念日)が祝日として制定された。初期政府国務大臣に「大倧教」信者であるイ・シヒョン副大統領、イ・ボムソク長官等、7名に達する程の教勢が続いた。当時のイ・シヒョン副大統領は「景福宮(キョンボックン)」(朝鮮王朝の正宮殿)に「大倧教」の総本寺を置くという抱負も持っていた。
 
▲ 元永鎭 総典教と李沃龍 発行人が、「大倧教」総本寺の天宮にてポーズを取る。    © 黄光顯 記者


民族自主と抗日独立精神を受け継ぐ、新しい目標を探すべき


元永鎭総典教には、檀君の「弘益人間、理化世界」精神を広める「大倧教」の中興を起こさなければ課題がある。
歴代政府の政策に圧迫されて迷信・偶像崇拝と認識される檀君教を、「民族固有の神様を信仰する宗教」として知らせる必要があり、「私が中心になってしなければならない」という。各宗教と社会の葛藤を「弘益人間、理化世界」精神で解いて融和させる責任がある。多宗教・多文化時代に入った国で、既往の民族自主と抗日独立精神を継承する新しい精神である。
正統民族宗教としての地位を確立する重大な責任もある。五千年続いていたのが700年の間途切れた檀君教の脈絡を引き継いだ「大倧教」として、民族信仰と宗教全体を調和させる指導力が要求される。
現在、檀君を崇拝する信仰者は300万人に達すると推算されている。しかし、「大倧教」が中心になって崇拝するというよりは、乱立した各種類似団体が行っている。禅仏教をはじめとして「ハンオル教」、「宇宙宗教」、「檀君教」等が全て檀君を根としていて巫俗、山神信仰等の我が民族の固有信仰もやはり、檀君信仰が基盤となっている。「大倧教」総本寺が直接関与する箇所は、道本寺4ヶ所、施教堂100ヶ所余りが存在するだけである。
元永鎭総典教は、「キリスト教が数百個の教派が発生して神様の意志を伝えるように、『大倧教』も色々な分派に分かれて檀君の意志を伝播すると見れば良い」と話すが、一方では「啓示を受けた」と主張する人々が「個人プレー」で乱立することに対して憂慮が大きい。「真理で一つにならなかったために、真経を見て直さなければならない」という信念である。
彼は「三清公園」に檀君像を設置しようとしたが米軍政の反対により、そして、1988年のソウル・オリンピックの時はパク・セジク組織委員長が南山(ナムサン)に1300坪の土地に檀君神殿を作ろうとしたがプロテスタント等の反対によって失敗に終わったことに対する無念が大きい。民族宗教を蔑んだ政府の政策に対する悔しさもある。北朝鮮が壇君陵を発掘して、最大の聖殿として整備して民族精神を賛える事実と比較もした。
そして何よりも、1960年代の「大倧教」において、「巫俗教化院」を設置、5000人の巫女を教育させたのだが、当時の「大倧教」内では「巫女教」に対する反論が大きかったことに大きな遺憾を感じている。「檀君の敬天思想が根強かった我が民族は、民俗信仰だけでなく仏教、キリスト教の流入が世界のどの国より急速に成立した」として、「5色人種が一家族一兄弟という『大倧教』の基本精神を持って、他の信徒とも共にするべきだった」と強調する。「大倧教」の原理主義が、巫女を包容出来かったのだ。


300万人の檀君信仰者と全ての宗教を包容する宗教へ


元永鎭総典教はプロテスタントの原理主義、教条主義、排他主義を拒否するように、「大倧教」のそういう態度も拒否するようであった。
1990年代にある民族宗教団体は、キリスト教団体に対して「ハヌニム(神様の意味)」という名号を盗用してはならないという訴訟を起こした。現在のイスラム国家であるマレーシアで、聖書に「アラー」(神の意味)の名称を使わせないことと同じ現象である。中国で「god」を「上帝」と言ったことに反して、韓国キリスト教で「ハヌニム」という呼称を使ったことは民族自主性の拒否であり、韓民族歴史の根源を変質させる憂慮があるとんことだった。我々が固有の檀君を異邦の神であるエホバ、アラー、ブラフマン等で僭称してはいけないと言った。
彼はこのような状況に対して一理があると理解を示しながらも、そんなに重要な問題でないと思っているようであった。「檀君と『ハヌルニム』、神様は同じ方」という信念が、より一層大きいからであろう。
「大倧教」が300万人の檀君信仰者を包容するためにも、「大倧教」の原理主義、教条主義、排他主義から抜け出さなければならないという考えがあり、それが「大倧教」の基本精神だと確信している。

2月14日(陰暦1月15日)には第105周年「重光節」を迎え、西大門区(ソデムング)弘恩洞(ホンウンドン)にある「大倧教」総本寺天宮で記念式を捧げた。教勢と社会的な立場が弱くなったので、天祭儀式を派手にはしなかった。しかし、「『大倧教』は檀君を教祖とした民族固有の神様を信仰する宗教」として、「弘益人間、理化世界」の大志を広げる意志に変わりは無かった。それで、現在は非力であってもその精神が続く限り、壮大に広がって行くだろうと元永鎭総典教は信じた。彼がプロテスタントから「大倧教」へ改宗して首長になったように、いつかは「大倧教」が文字通りに一番の宗教になるころが出来ると信じているようだった。
「弘巖」大倧師が「大倧教」を創始した「重光節」の意味を超越して、世の中の人々に宇宙誕生を知らせる開天節(陰暦10月3日)の意味を伝達する日を期している。宇宙、宗教、文明、国が開かれた最大・最高の祝祭日になっていく過程に、自身の酒脱で積極的な行動で関与して行きたいという心であったのだろう。
檀君がこの世に降臨して、216年後に再び天に上がった日である「御天節」(陰暦3月15日)、民族の名節として「嘉慶節」(陰暦8月15日)等の「大倧教」の祭日も、いつかは万人が敬拝して賛える日になることを確信していた。



「大倧教」の核心教理と「開天節」の変遷
 
▲ 「大倧教」の摩尼山開天節行事の場面。     © 「大倧教」 イ・チャング ポンソン 提供


<教理の根幹は「三一神」思想>
「大倧教」の根本教理は、性・命・精の「三真帰一」と止・調・禁の3法である。教理の根幹は「三一神思想」である。「真理大典」の〈大倧之埋三一而已(大倧教の道理は三と一だけ)〉は、すなわち〈ハンオルは、桓因(ハンイン)と桓雄(ハンウン)と桓儉(ハンゴム)である〉の三神一体、三儉一体の「天祖神教理」と相通じ、「天祖神」はすなわち、「大倧教」の信仰対象でもある。
三神説の他にも、「三真設」を基盤にした三夙説・三忘設・三途設・三法設・三我設および天宮三府設などは全て、この三一の原理に土台を置いている。
救済観は、人間は誰でも三真を受けて生まれ育ち、三妄を受け、三法によって三途を磨いて、本来の三真状態に戻れば、それは一神に帰一することになる。これが返妄即真・三真帰一の教理である。
経典は「啓示経典」と「道通経典」に分けられる。「啓示経典」には「三一神誥」、「天符経」、「八理訓」、「神事記」等があり、「大倧教」の重光以前に天祖神の啓示によって作られたもので、「道通経典」は「真理大典」、「会三経」、「三法会通」、「神檀実記」等があり、「啓示経典」を基本として様々な宗師が教理を解説・注釈したものだ。「大倧教」の教理を調べれば、儒教・仏教・道教の外来宗教思想を取捨選択して一つにした混合教理であることがわかる。
「大倧教」の救済論は、自力的方法と他力的方法の二種類によって、人間の救済を語っている。「三一神誥」の「真理訓」と「神事記」の「教化紀」によれば、人と万物は全て三真を受けて生まれるが、三種という性品と命と精気として、これが人の本土台である。しかし、肉体を持って人生を生きる間に三妄が生まれてくるが、三妄とは心・気・身である。三妄によって三真が弱くなり、欲が出て、病気になって罪を犯すことにより苦悩に陥るが、自らの力で三妄を押さえ込んで三真に戻ることが自力的な方法で、ある超越的な力を借りて三真に戻ろうとすることが他力的な方法である。
自力的な方法は、真と忘が対抗して三通りの感・息・触が作られるのだが、この時に止感、調息、禁触、節制して禁欲主義的な修行をするならば、妄を真に戻すことになり、性がひらいて功を完全にする(性通功完)という。



▲ 中国・華竜市にある「大倧教」 御三家の墓。     @イ・チャング ポンソン提供

〈開天節(建国記念日)に唯一参加した、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領〉
一方、開天節は1900年に「大倧教」を重光したことから、祝賀を始めた。大韓民国臨時政府は、発足元年である1919年から国務院主催によって、陰暦10月3日に「大皇祖聖誕 及 建国紀元節祝賀式」を挙行した。
解放後の1948年、政府樹立後にもこれを継承して、開天節を祝日として正式制定して国家的に祝い始めた。1949年からは、陽暦10月3日に変更して挙行することになった。檀紀年号使用も5・16革命政府によって廃止され、1962年1月1日を期して、西暦を使い始めた。これにより、五千年歴史の中で僅かばかりの独自年号を使用した短い時間は歴史の中に消え去り、開天節の意味も薄れて行った。歴代大統領の中で開天節行事に参加したのは、全斗煥大統領だけである。





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