광고

映画「あなた、その川を渡らないで」と真実の愛

매일종교신문 | 기사입력 2014/12/20 [13:38]

「愛の力」断想

映画「あなた、その川を渡らないで」と真実の愛

「愛の力」断想

매일종교신문 | 입력 : 2014/12/20 [13:38]
▲ 老夫婦(98才の夫と89才の妻)の愛と離別を描いた映画、「あなた、その川を渡らないで」が家族と愛という普遍的なテーマを取り扱い、全ての世代から幅広い支持を受けている。©毎日宗教新聞


人間は本来、愛に生まれて、愛に生きて息子や娘を産み、愛の目的地に到達して、永遠に創造主である神様と共に生きるために、神様の懐に戻るのが人生行路である。愛の目的地に到達して、神様と一緒に永遠に生きるために、神様の懐に戻るのである。すなわち、私達の一生とは愛で始まり、愛で熟して、愛の実として収穫されるものである。人が死ぬというのは、愛の実を収穫することである。

愛とは何であろうか? 愛に対する辞書の定義は、「人間の根源的な感情として人類に普遍的であり、人格的な交際、または人格以外の価値との交際を可能にする力」とある。文学的や哲学的にはお互いの関係に従って、愛をエロス、ストロゲ、フィリア、アガペー等の4つに分類している。エロスは異性間のロマンチックな愛、ストロゲは家族や親戚間の愛、フィリアは友人間の友情、アガペーは神のように犠牲的で偉大な愛をいう。言い換えれば、人間はエロスによって生まれ、ストロゲによって育まれながら、フィリアによって心情が整えられて、アガペーによって完成されると定義している。


私達はこの4つの愛の種類に対して、常識として説明は出来るが、真実の愛が何かという問いの前では漠然とならざるを得ない。このような漠然とした愛に対する理解により、愛によって起きる色々な問題も見受られる。もし、真実の愛が何かを正確に知って各自が接する環境で実践するようになったら、私達の人生は豊かで幸せになり、新しい希望と可能性を発見するようになる。


真実の愛が実現される所がまさに天国

それでは、真実の愛の属性は何であり、真実の愛の実現はどこで、どのように形成されるのであろうか?

第一に、真実の愛は与えても忘れてしまい、また与えようとすることだ。ここで話す真実の愛とは、条件を前提としたり、計算的な愛でない。このような愛を実践する人こそ、真実の愛の主人になることが出来る。真実の愛を行う人は、豊かさを感じながら生きる。なぜ、そうなのか? 真実の愛を実践した後では、消耗感も空虚感も存在しない。それは、神様の創造を見ても知ることが出来る。神様と人間の関係を、父子の関係といった。それで神様は愛する子供である人間と天地の万物を創造するために、全てを投じた。この偉大な創造の後には、与えても忘れてしまい、また与えようとする真実の愛の論理が適用された。私達は両親の愛を通して、このような神様の愛を感じることが出来る。両親は、子供に全てを与えたがる。与えても、常に与え足りないと感じるのが両親の気持ちである。このような両親の心は、与えて続けても空しさを感じない。
むしろ、幸福でいっぱいだ。

第二に、真実の愛の実現は、4つの愛が留まる家庭から始まる。愛にも様々な種類があるが、最も基本的なものに、両親の愛、夫婦の愛、子供の愛、兄弟姉妹の愛がある。
愛は必ず相手を通して、相手との意思疎通を通してなされる。愛は自分から始まるのではなく、相手を通して無限に大きくなれる。あなたは、今どこでどのように真実の愛に通じながら生きていますか? まさにこのような関係を通して、真実の愛の出発が家庭から始まる。家庭で4つの真の愛が実現される時、私達の生活環境では天国が始まる。家庭は、天国の縮小模型であるためだ。しかし、現実はこれとは正反対の方向へと行き、家庭が崩壊されて残念である。両親がおらず、夫婦がおらず、子供がおらず、兄弟姉妹がいない私一人だけがいる場所が、真実の天国になり得るだろうか?


第三に、真実の愛は拡大発展する。真実の愛の実践は限定されたり、消耗の概念でなく、益々大きくなるようになっている。それは家庭から始まる。真実の愛は家庭の中だけに留まるのではなく、より大きい環境へと膨張・発展するようになる。両親の愛は自分の子供だけのための愛でなく、同じ年齢層の全ての子供達を愛するようになる。その愛は家庭を越えて社会へ、国家へ、世界へ、宗教と文化、人種と国境を超越して実現される。それと共に変わらない真実の愛の内容、すなわち与えてもまた与えたい心がなければならない。


「あなた! 私たち本当に幸せに暮らしたよね。」

76年の間、お互いを大事にして生きて来たある老夫婦の愛が、真冬の映画街を熱くしている。「アーガスフィルム」提供のドキュメンタリー映画、「あなた、その川を渡らないで」の興行成績に熱い風が強く吹いている。家族と愛という普遍的なテーマを取り扱い、全ての世代から幅広い支持を受けている。老夫婦(98才の夫と89才の妻)の愛と離別を取り扱ったこの映画は、11月27日の封切りから13日間で30万人の動員観客数を越えた。韓国の独立系映画の中で、最短期間で累積観客数30万人を突破したのである。2009年に韓国の独立系映画史上、最大スコア(293万人)を記録した「ウォナンソリ」よりも早い記録である。

商業映画の製作費の10分の1にも満たない資金(1億2000万ウォン)で製作された素朴なドキュメンタリー映画が、そうそうたるトップスターが出演した国内外の映画を抜いて、素晴らしい興行成績を上げた。「あなた、その川を渡らないで」は封切り映画館が186箇所であったが、現在は301箇所に拡大した。
12月8日にはイ・ジョンジェ、シン・ハギュン主演の「ビッグマッチ」を抑えて、週末(7日)には一日で5万人を越える観客を集める等、尋常でない興行を見せている。この映画にはスター俳優がおらず、スペクタルな場面も登場しない。江原道(カンウォンド)横城(フェンソン)の小さい村で、結婚76年目の仲良く暮らしている老夫婦(夫:チョ・ビョンマン、妻:カン・ゲヨル)の日常が全部である。


老夫婦のちょっとした出来事によって、日常を作っている。春には夫が花を折って妻の頭に差してあげて、夏には小川でバタ足をして水遊びをする。秋には夫が妻に落葉をふざけて投げつけ、冬には二人で外に出て来ては冷えた手で雪玉を作って、雪合戦をする。


「ペアルックのTシャツ」のように同じ色の韓服(民族衣装)を着飾って、どこへ行こうが手をぎゅっと握って行き交う白髪夫婦の姿は、「やらせ」ではないかという疑いを持ったりもする。しかし、疑かったことがすぐに恥ずかしくなる。夫が妻の頭に花を差してあげながら、「きれいだ!」と言って笑う時、観客は甘い愛を味わうようになる。この映画では、私達の人生には死が自然とあるように、永遠な離別も自然に描く。映画の撮影中、チョ・ビョンマンさんの健康が悪化して、家では笑い声が減る。妻は夫の顔をなでながら、「3ヶ月間だけ、このように私のそばにいてくれたら良いのだが」と話す。ある場面では悲しみを表現する音楽が背景に流れないが、観客は離別までの期間を愛でもって待つ老夫婦を見る時、涙を抑えられない。


三世代を泣かせる映画、「あなた、その川を渡らないで」

信頼の上に築かれた愛を、自然に淡泊に表現した演出が、リアルティを渇望する映画街を訪れる観客に通じたという分析である。この夫婦の話は、2011年のKBSテレビ「人間劇場」で既に取り扱った話である。放送を見たチン・モヨン監督は直ちに江原道(カンウォンド)に赴き、老夫婦の長女に撮影許可を受けた後、15ヶ月間を老夫婦を見守りながら、彼らの人生をフィクション無しにフィルムに収めた。夫の死、子供同士の葛藤等、映画のダイナミックな内容は、全て事実である。

老夫婦が主人公であるのにもかかわらず、この映画は家族と20代の観客が多い。前売りサイトの「マックス・ムービー」によれば、前売券購買者の年令比率は20代が28%、30代が29%、40代が40%である。「駆け引きテクニック」の恋愛に習熟している若年層はこの映画を見て、「軽薄な愛が溢れる時代に真実の愛を確認出来て、感動的だ」という意見が大多数である。暖かい家族愛を見守るのが難しい現代において、この映画が代理で満足させてあげた側面もある。死ぬ時まで仲睦まじく見守り続ける人情は、世知辛い現実と対比されながら、人の心に大きな衝撃を与えたのである。


チョン・ジウク映画評論家は、「シルバー映画だが、家族と愛というテーマを取り入れて、全ての世代に訴求力がある大衆性を備えて、映画配給の序盤に配給がうまく実現したので、口コミ効果が極大化した」と分析した。CGV会員を基準として、20代の観覧客の比重は51.7%にもなる。老夫婦の愛が、どうやった全ての世代の心を動かしたのだろうか。観客に「心を動かされた映画の場面」を尋ねた。


20代(チェ氏・25歳・コールセンター職員)

幼い時に死んだ子供を思い出しながら、児童用の下着を買うおばあさんの姿が記憶に残る。おばあさんがおじいさんに対して、子供達に下着を一度も着させることが出来なかったと、この世から先に去った人が(あの世で)子供達に下着を持って行ってあげようという時、たくさん泣いた。数十年が過ぎ去っても3才、6才に死んだ子供は、親には忘れられない悲しい出来事になるんだなと思った。仲睦ましく愛し合う、微笑ましい老夫婦の話を期待したが、見てみると、子供の立場で親や家族に対する思いを多くした。

30代(イ氏・31歳・会社員)

年老いている両親をちゃんと世話しなかったと、互いに言い争う子供達の姿を描写した場面を選びたい。美しい場面も良かったが、このドキュメンタリーではやらせの無いリアリティーが最もよく生き生きとした場面であった。本来、映画を見ながら泣くタイプではないが、少し前に母方の祖父が先に亡くなくなり、一人で残された祖母のことが浮び上がって来て、映画を見ていて終始、むせび泣いた。

40代(ハン氏・47歳・自営業)

老夫婦の食事をする場面が良かった。おかずが質素なのにおじいさんはおいしそうに食べて、おばあさんはおじいさんが一生、おかずに不平を言ったことは無いと話す。ご飯がおいしいから不平を言わなかったのではなく、それ程までにおばあさんを大事にしているから不平を言わなかったのだと思われる。普通、老人映画を見る時は、両親を思い出すのだが、今度は妻を思い出した。結婚して15年になるが、普段の生活に疲れて妻に対して心遣いを出来なかったが、心だけは豊かにしてあげなければならないと思った。映画の中では、夫婦が心豊かに暮らしたから、幸福だったのではないだろう。映画を見ながら、横でぽろぽろと涙を流して泣く妻の手をぎゅっと握ってあげた。こういう話をするのは柄にも無いが、「この手を絶対に離しちゃいけないな」と考えた。

50代(李氏・54歳・主婦)

老夫婦が小川でお互いに水遊びで水面を打つ場面が本当にきれいだった。映画を見ながら、涙、鼻水をたくさん流したが、それでも最後は本当に暖かみを感じた。夫婦が長らく幸せに愛し合うというのは非常に大変なのだが、不可能ではないとの考えに安心したりもした。映画の中の老夫婦のように、これからは面白く、内容が詰まった人生を楽しく生きなければならないと思った。

60代(チョ氏・69歳・主婦)

おじいさんの墓の前で涙を流すおばあさんの姿を、長く忘れずにいるだろう。遠からず自分の話になるかもしれないという思いからなのか、とても悲しかった。夫婦が愛し合う姿から別れの場面まで、ずっと涙を流していたみたいだ。
お互い大事にしながら生きて、人生の良い終わり方についても悩まなければならないようだ。


チョン評論家は、「この映画は老夫婦が主人公だが、『シルバー映画』に限定されない。真実の愛を扱うという点で家族映画として遜色無い」と語り、「経済的に大変で、家族間の愛を守るのが大変な状況において、この映画は暖かい慰めを望む観客の趣向を正確に掴んだ」と話した。


夫婦関係の理想と現実


夫婦関係をはじめとする男女関係は、当事者でなければよく分からないことが多い。それでTVに出てくる芸能人夫婦が過度に仲が良かったり、反対にカメラの前であっても無神経な行動をすれば、むしろ不快感を受けたりもする。


「あなた、その川を渡らないで」は、主人公である老夫婦の睦まじい雰囲気が、今まさに恋愛を始めた若いカップルにも劣らないという感じを与えてくれる。江原道の山奥に生きるこの老夫婦は、色を合わせたきれいな韓服のペアルックを着るのは基本で、庭の落ち葉を掃きながらお互いに落葉の塊を投げ合って、いたずらをするのが日常である。
何と、76年を共にした間柄である。その歳月を実感したのは、映画の中盤で老夫婦が子供達の中で幼くして服をちゃんと着させることも出来ずに死なせた子供達を思い出しながら、胸を痛める場面である。


事実上、1世紀に近い彼らの人生でドキュメンタリーに盛られた部分は撮影期間で1年あまり、上映時間で86分の長さだ。それから年齢で推測すると、彼らの結婚生活が日本の植民地時代と朝鮮戦争期を経験したことは当然の事である。その厳しい時代を思い出させる瞬間、言葉で尽くせない喜怒哀楽を共にした二人が幼馴染みのように、人情深く懐かしい姿がどっしりと迫って来た。


この老夫婦を今の時代において夫婦生活の手本にしようとすれば、思い浮かべることすら出来ず、話にならないだろう。最近は熟年離婚が日常茶飯事(司法年鑑によれば、2013年における結婚20年以上の夫婦の熟年離婚は3万2433件で、歴代最多)であることはさて置き、社会が専門化・分業化されながら、夫婦も各自の人生を互いに理解しようとするならば、かなり多くの努力をしなければならない。


親の役割もそうだ。特に子供の父兄の役割をしようとするならば、入試専門家レベルの情報力は基本で、時には企業の最高経営陣に劣らない未来戦略が必要な程である。
その上、平均寿命が伸びたとは言え、結婚する時期は益々遅れている。妻の年齢が14才の時に初めて出会って、今まで共にしたこの老夫婦ぐらい、それも睦まじく老いることはあれこれ考えてみても難しいこと。ところで、頭ではそういう現実的な言い訳を思い浮かべながらも、心はこの老夫婦の愛の虜になってしまう。お互いに尊敬語でしゃべり、その言葉と行動にたっぷりと現れる初々しさと愛情が、夫婦が「一生を共にする」という意味を見せてくれる理想的な形の一つであるためだ。


愛されて生きようとするなら


主人公の老夫婦のようにお互いに愛して愛されて生きようとすれば、どうしなければならないだろうか。人間は誰でも、愛されて生きることを望む。老若男女、地位の上下を問わず、条件に関係なく、誰でもお互いを高めて丁重に接するべきであることを悟らせくれる寓話を一つ紹介する。


短気な王は、この世の全てを持っていた。欲しい物あれば何でも、自分の物として作ることが出来た。しかし、王が本当に欲しい物は、他にあった。それがまさしく、「国民からの愛」であった。彼は毎日愛されたいと大声を出しては怒り、命令して我を張った。だが、国民は王に全く関心が無かった。王は国民の心を掴もうとしてあらゆる努力をするが、国民は王に無関心である。それで王宮で命令だけをしていた王がある日、外に出て行った。外の世界で、王は思いがけない場面を目撃するようになる。王がいないのに、国民は皆んな楽しく、幸せに見えた。ところが王が近寄ると、皆んな逃げて行ってしまった。愛を受けるどころか、仲間はずれになった短気な王は、どうしたら国民の心を掴んで愛されるだろうか? この例を通して、相手から愛されて尊重されるためにはどうしなければならないのか、一つの答えが得られる。


人は誰でも尊重されたい。だが、尊重は心の奥底から出てくるものであるから、命令したり、脅かせば得るものではない。人を無視して、自身の存在を高めようとしても駄目である。
尊重されたければ、まずは自分が他人を尊重しなければならない。決して、ものすごい努力が必要なのではない。お互いに慈しんで、一緒にいて、それで充分だ。尊重は、「易地思之」(相手の立場になって考える)の態度から出発する。相手の立場になって考えてみて、行動するのである。何か一言を言うにしても相手の立場ではどのように聞こえるかを考えて、小さい行動の一つであっても相手に対して心の傷にならないだろうかを慮るのである。両親と子供、夫婦、兄弟姉妹、友人、同僚等の関係でも、尊重は必須だ。少しずつ相手の心を訪ねて行きながら、互いに尊重する時、調和的に生きることが自然に出来るようになるであろう。
<「精吾」ムン・ユノン(コラムニスト)moon4758@naver.com>

(翻訳:石橋健一 東京特派員)
  • 도배방지 이미지

많이 본 기사
모바일 상단 구글 배너